言いたい放題 ~Hiikichi's BLOG=Ⅱ=~          

知っていること、知らないこと、知りたいこと、知りたくないこと・・・ この社会に対して色々思う事を書いてみるBLOGです。

風流に、そして風雅に生きる

何日も雨が降り続く、或いは想像を絶する量の雨が短時間に降り注ぐ、等々、集中豪雨による災害が、毎年毎季、列島の何処かで起きることは珍しくなくなった。発生地にとっては数年に一度、数十年に一度、或いは百年に一度であっても、近隣や日本の何処かでは必ず経験していること。若しくは、世界の何処かでは必ず起きたこと。ニュース映像などでは絶対に見ている筈。そこで被災した方へ心を寄せていれば、自分の身に起きていても何ら不思議ではなかったと思え、少しは教訓に出来る筈。

そして、今夏、図らずも被災された方々に心を寄せ、あのニュース映像が(実際には想像を絶する恐怖であった事は言うに及びません)いつか必ず自分の身に起きるという覚悟を持って今後を生きるべきだと改めて強く認識出来た。現朝倉市である旧甘木市に住んでいた一学年下の女の子(当時)に対して、四捨五入すれば40年近い昔の事ですが、恋していたのでね。あの子、大丈夫だろうか?とか、秋月にはしょっちゅう写真撮りに行くので、思い入れも強いのですよね。天気予報では、雨はまだ予断を許さないという事ですが、どうかこれ以上の被害拡大にならないよう祈ります。

 

さて、今回の教訓を踏まえてまたダラダラと文章書いてみます。

自然は、人間にとって最も得体の知れない相手です。雨が降る事を嫌がっても、人間の力では雨を止ます事は出来ない。雨上がりはただ待つしかない。強風が吹き荒れ、竜巻が起きる事を嫌がっても、人間の力では風を止める事は出来ない。穏やかな風に戻ることをただ待つしかない。

土砂降り、台風、猛吹雪、灼熱時・・・。人間は、それらを凌げる場所に留まり、それらの収束をただひたすら待った。雨も風も雪も猛暑も極寒も、耐えて凌げば必ず収まる事を知り、得体は知れずとも、全て(自然の)摂理として受け入れた。

「降り止まない雨は無い」「夜は必ず明ける~闇は必ず晴れる」「風は必ず止む」「暑さ寒さは(春・秋の)彼岸まで」・・・

自然に準えて、耐えれば良い事もあると言い聞かせ、水の流れるまま流されるまま、風の吹くまま気の向くままと、「自然には逆らわずに生きる」。それが正しいと信じて生きてきた。

しかし、より確実に凌ぐ為の工夫をするのも人間だ。

雨を凌ぐ傘や屋根、風を凌ぐ壁、暑さ・寒さを凌ぐ被服の工夫や空調機他。雨の日も風の強い日も凍える日も猛暑の日も、それを和らげる方法を工夫し、更には自然の力を応用する技術も手に入れた。自然はけっして怖いばかりの「得体の知れない相手」ではなくなり、自然こそが共存して活用出来る相手であるという認識を得た。とは言うものの・・・

人間は、多少の風雨を恐れなくなった。しかし、雨の量、風の力を決める能力までは持てない(持ってはならない)。

巨大台風、突風・竜巻の恐怖は消えないどころか、近年ますます巨大化・強大化している。異常熱波、異常寒波に見舞われる事も少なくない。火山の大噴火や巨大地震。それらに関連する地割れ、巨大津波等々、人間の技術など何も通用しない「得体の知れない」自然の力は、この地球上に無限に存在する。

自然は時と場所と事情を考慮することなく牙を剥く。猛威を振るう。自然を制御出来るなどと考えるのは人間の思い上がりであった事を度々教えられる

 

ところで、日本人は「風」が好きである。風に思いを寄せられる。しかし、現代の日本人は風流や風雅を忘れてとにかくせっかちになった。それは言葉に現れる。風に吹かれる(自然の)まま生きながらも、「風向きを変える」とか「風当りを弱める」とか言い始めた。本来の自然に身を任すままならそれは「風向きが変わる」であり、「風当たりが弱まる」である。

 

アイヌ民族は、自然との会話が出来る民であった

ヤマト民族も、自然と会話して自然を遍く崇拝し、八百万の神として奉った

山河に生き、厳しくも風雅な四季に接したアイヌとヤマトは、共に互いのご先祖様より、土、石、樹木、動物・・・、山の神、海の神、雷神、風神、・・・太陽神に到るまで、ありとあらゆる万物に神の宿り(自然を超越した存在)を信じ、物事全てを大切にと教えられた。そして、二つの民族は現在「ニッポン人」を構成している大切なパートナーとなった。

日本列島は四方八方を海に囲まれ、何処にも逃げられない。危険過ぎるが至る処に風雅さが在る。ニッポン人は、自然のままを受け入れ、自然のままに生きて来た。だから本来のニッポン人にとって焦り(せっかち)は禁物なのだ

 

海外からは、日本人を理解するのは容易では無いと言われます。

あまりにも開けっ広げで、他人を信じ易い「お人好し」。

人の言う事を聞き過ぎる。だから逆に疑いの目を向けられる。

時間の大切さ(過ぎた時が戻らない事)を知っているから、人様に、手間(時間)を取らせる事を先ず詫びる。人に時を使わせる事は謝るべき事と自然に覚える。

だから物事の先に「すみません」「ごめんなさい」を言う。それが不気味だと思われてまた疑われる。

でもやっぱり・・・

日本人は日本人らしく、風の吹く流れのまま、「風流」「風雅」に大らかに生きている姿が一番似合う。ギスギスしてせっかちに生きる姿は似合わない。

良い風にばかり吹かれようとするのではなく、怖い風も、向きが悪い風も、全て自然のままに吹かれてこそ「風流」「風雅」です。

それが一番良い生き方なれど、「恥ずかしい生き方をしなさんな」という言葉も聞こえても来る。善悪の区別がつかないようになったら、人間は人間である事を止めなければならない。人間でいたければ、世間の風が如何に厳しくとも、心に隙間風が吹くような生き方ではダメです。実際には、隙間風どころか心の中は雨霰状態、という人も少なくはないでしょうけど、それでもしっかり立ち続けて風雨に耐えるしかない。心の中に吹き荒ぶ雨、風を凌ぐ為、あっちフラフラ、こっちフラフラとなる事はあっても、絶対に、「人の道」だけは踏み外しませぬように踏ん張りましょう。(※被災者宅へ侵入して「火事場泥棒」のような事をやっている腐った人間ども、恥を知れ!)