言いたい放題 ~Hiikichi's BLOG=Ⅱ=~          

知っていること、知らないこと、知りたいこと、知りたくないこと・・・ この社会に対して色々思う事を書いてみるBLOGです。

人情が生かされない政治は死んだも同然

経済的に特に恵まれているわけではないけれど、大きく道を踏み外す事はしない。本来、真心(まごころ)を持っている人とはそういうもの。真心を持って人と接する人同士だから其処に「人情」が生まれ、多くの人が「人情」に包まれ心豊かに生きている。

「人情」は、都会にも田舎にも同じように存在します。人情に上下左右は関係ない。情を持つから人です。そして、ニッポン人は、特に人情を大事に生きて来たとされる。情に脆く、騙され易く、移ろい易い。移ろい易いので、昔の事を水に流す事も容易に出来た。死んでしまえば皆仏、という考え方も生まれた。

しかし、現代の日本社会からは人情が消えつつある。情け容赦ない言動を発する者が年齢層に関係なく増えている。それは集団苛めとなり、それを(多くの)見て見ぬ者達が遠巻きにする。遠巻きにして逃げ場を奪う。良く言われることですが、見て見ぬ者達こそが一番の悪。見て見ぬフリではなく、"遠巻きに見ている"。遠巻きの距離は、苛められている者を(その先の自由へは)「逃げられない」思いへと追い込む。遠巻きにしている馬鹿者達の先にこそ人情の場があるのに、そこへ行き着けない。遠巻きの中には人情などない。が、遠巻きの人間達のせいで人情が隠され絶望させる。

人情が見えにくいのは、見て見ぬフリの卑怯者達によって(人間の)壁が作られていることの弊害です。人情を忘れたニッポン人は、総じて卑怯者になってしまった。

特別でも何でも無かった「人情の場」は、卑怯な人間の増殖に反比例してどんどん狭くなっている。故に、人の情けが本当に必要な人が、辿り着けない特別な領域となってしまった

 

人情の場に於いて世間の苦しみの声が拾われ、それは治世に生かされた。しかし、今や苦しみ足掻く人達の声を政治は吸い上げようとしない。エリートばかりが政治を行い、弱者は、政治を語る事すら否定される。エリートは、本当に苦しんでいる者達の傍へは寄って来ない。そして、本当に困っている者の声が政治家に届かないから、弱者は政治に絶望し、それが愛国心が育たない遠因にもなっている。弱者切り捨て政治は行っていないと政治家は言うだろうが、子ども達の自殺が減らない現実、大人達の下種な犯罪の減らない現実を直視して物言うべきだ。

弱者の声は見捨てられて良いのか?弱者である事は罪なのか?そんな事は無い筈だ。弱者にこそ情が厚い場所が存在しなければこの社会は救いようが無い

 

弱者の多くは、弱者のままを望んではいない。少しでも向上出来る事を望んでいる

「向上心」と言う位だから、心が正しく育つ事こそが大切。正しい真心は「人情」の中でしか育まれない。だから「人情」こそ政治に生かされるべき。経済面で弱者を救う「手当」制度も必要だが、それ以上に、情に優しい社会性が求められる。

自由な競争社会である以上、貧富、生活格差が生じるのは仕方ない。しかし、同じ国に生きる者同士として、国や社会に対する思い(=愛国心)に優劣があってはならない。経済的優位の側にある者は、弱者に対して心を寄せなければならない。「お金じゃないよ、心だよ」を言うのであれば、その心の実行こそが情に厚い政治であるべき。情を失くした政治は朽ち果てる。政治が弱者の声に耳を傾けなくなってどうしますか?

残念ながら我が国は、経済的な面を含めて弱者を落伍者として見捨てる傾向にある。落伍者(弱者)に足を引っ張られるのは御免蒙る、の考えで「負けた者が悪い」の論理を振り翳す。しかし、本当に良い国、尊敬される国ってのは、弱者からこそ慕われ誇られる国である。弱者切捨てが罷り通る社会であるなら、「切り捨て御免」が許された武士優位の時代から何も進化していない事になる。

 

エリート達が、人を見下すようになれば人情は成り立たない。人情が成り立たなければ弱者の心は救われない。

情に脆い事は足元を掬われかねないが、情に厚い事は足元を強く固める事になる