言いたい放題 ~Hiikichi's BLOG=Ⅱ=~          

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石橋湛山の再来を切望

私権や私益で派閥を組み、その頭領に迎合して出世しようと考える人は、もはや政治家ではない。政治家が高い理想を掲げて国民と進めば、政治の腐敗堕落の根は絶える

第二次世界大戦後の我が国の政治家の中で、ただ一人、本当に正しい自由国家を築ける可能性を持っていた悲運の宰相、石橋湛山(明治17年(1884年)9月25日生~昭和48年(1973年)4月25日没)。この人の政治スタンスの全ては上記の言葉に集約される。

東大を志すも現役時も浪人時も連続して受験に失敗。そして早稲田大学に入学して哲学を学んだ湛山氏はジャーナリストを志し東京毎日新聞社に入社(1908年。※現在の毎日新聞社とは無関係)。しかし翌1909年の年の瀬に「一年志願兵」として第一師団・歩兵第三連隊(東京・麻布にあった)に入隊。新聞社の社員だった湛山氏の入隊は訝しがられ、社会主義者と陰口も叩かれたがその誤解はすぐに解かれて退役時には軍曹だった。退役後、東洋経済新報社に再就職(1911年1月)。しかし、同年9月に再び軍隊へ。見習士官として再入営した湛山氏は1913年に歩兵少尉に昇格。そこで再び軍隊を離れ(予備役登録を済ませていた為、1916年には半年間の機動演習に呼ばれている)、東洋経済新報社で本格的なジャーナリストの道を踏み出します。

東洋経済オンラインの読者となっている人は少なくないと思いますが(此方もその一人ですけど)、会社四季報の出版元としても知られる東洋経済新報社は、後に民政党の総裁となる町田忠治氏が創設した(1895年11月)自由思想に主眼を置き経済系の情報に明るい出版社。そこで、天野為之や 三浦銕太郎と言った当時の著名なジャーナリストから鍛えられた湛山氏は、時代が大正に移り変わった頃には、「民主主義」の提唱者として、且つ大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として知られる存在となっていた。

 

湛山氏は、1924年(大正13年)12月に東洋経済新報社の第5代主幹となり、翌年1月に代表取締役社長に就任すると、同じ年に鎌倉町議会議員として(地方議会ではあるものの)政治の世界にも進出します。

日中戦争が勃発して以降、太平洋戦争が終わるまで、湛山氏が率いる東洋経済新報社は一貫して長期戦化を戒める側に立って論陣を張る。普通はそうすると軍部からお咎めを受けるが、ひるまない湛山氏は、当時の政府や内務省から監視対象とされインクや紙の配給を大きく制限されたがその姿勢を曲げず、そして廃刊も免れた。湛山氏率いる東洋経済新報社は、日本敗戦直後の1945年(昭和20年)8月25日に、論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べた。更に、10月13日の『東洋経済新報社論』で、「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張している(ところが愚かなGHQは、湛山氏を戦犯扱いとして追及する)。靖国廃止論は如何なものかとも思いますが、それはさて置き先へ・・・

 

そのような湛山氏を左派政党が放っておくわけもなく、戦後すぐに社会党が近づいてくる。が、湛山氏は社会党をソデにして自由党から総選挙(1946年)に出馬します。が落選(人生はそんな簡単じゃない)。しかし、吉田茂に請われて大蔵大臣として民間登用されます。この時以来、GHQと激しくやり合うようになった湛山氏は、日本側にとっては痛快な大臣だったけど、アメリカ合衆国にとっては煙たいばかり。それで、翌年の総選挙には当選したものの、GHQから公職追放令を受けて政界を去る羽目に。この時、吉田茂が何の抵抗も出来ずに(と言うより、裏で糸を引いた張本人が吉田茂とも言われている)それを受けたことに対してその人となりを見限り、以後は、吉田に対して壁を置いたと云われます。

 

1954年(昭和29年)に政界への復帰を果たした湛山氏は鳩山内閣通産相として入閣。再び、アメリカ合衆国とやり合う。この時、石橋湛山は強い態度で、中華人民共和国ソビエト連邦との国交回復を図った。これがアメリカ合衆国政府の逆鱗に触れ、アメリカ合衆国は対日援助の中止も有り得ることを通告して来る。それに対して湛山氏は、「我が国はアメリカ合衆国の子分じゃない。内政干渉させずに無視するべきだ」と鳩山首相に迫った。そして、1956年(昭和31年)に日ソ共同宣言が行われ日本とソビエトの国交は回復する(10月19日)。 しかし、約1か月後の12月に入って鳩山首相が引退表明。多分、相当な圧力があったのでしょうね。それで急遽自民党総裁選が行われることに。湛山氏は、鳩山派の一部勢力を譲り受ける形で石橋派として立候補する。その対抗馬は岸信介。そして大方の予想は岸信介優位でしたが、湛山氏が逆転。自民党総裁となり首相の座へ。

ところが、派閥政治を嫌った湛山氏は人事に躓く。そして総理でありながらいくつかの大臣を兼務せざるを得なくなる(実際は組閣が出来ない、一人内閣)。その激務がたたり、僅か一ヶ月で軽い脳梗塞を発症し緊急入院。2か月もあれば退院出来たので、副首相を立てれば済んだが、国会の停止を嫌った湛山氏は潔く首相を辞任する。

 

この辞任さえなくて、湛山氏が常々提唱していた、「日中米ソ平和同盟」が成せていたら面白かったのに。

湛山氏は、朝鮮は朝鮮人のもの。支那満州も含め)は支那人のもの。ロシアはロシア人のもの。そして日本は日本人のもの。と強く主張していた。それに基づくような各国との話し合いが出来ていたら、今とは違う地政学になっていたような気がします。

現在の親米保守派の面々は、湛山氏を好かないという意見を持つ人が大半でしょうけど、日本の「保守」って日本の何を保守するの?アメリカありきの日本?派閥の大人数がなければ何も出来ないような政治家が「日本を守る」なんて軽々にいう事が面白くない。一人で、アメリカ合衆国相手に戦って見せたような政治家が、嘗て、自民党の中にいたことを自民党は忘れてしまっている。大人数を持っている人に靡いているばかりの政治家は見ていて面白味がない。絶対的な自由と自主権を求めた湛山氏のような政治家が出て来ることを切望します。

そう言えば、マスコミから「日本新党」の言葉がよく出て来るようになったけど、日本新党のような政党が再び出現するのかな?数が足りずに無理な連立を組んであっという間に廃れてしまったけど、日本新党のような対抗馬が現れたら自民党も少しは気を引き締めるのでは?それと、民進党とかその他無用な政党はさっさと消えてなくなればいい。(本当は、自由意見を打ち消すような姿勢が止まない、最近のろくでもない自民党にもさっさと解党して欲しいけどね)。