現代社会怪説 ~Hiikichi's BLOG=Ⅱ=~          

政治、社会、その他諸々、感じたままに「怪説」しています。

物理学者の予言

第四次世界大戦が起こった時、武器となるのはただの石

そのような事を断言した人は、1921年に「光電効果の法則の発見等」の功績によってノーベル物理学賞を受賞したアルバート・アインシュタイン(1879年3月~1955年4月)。

一般的には、原子力エネルギーの解放、ひいては核兵器の生産にも繋がる相対性理論の発見者と言われるアインシュタイン氏を指して、恰も「原子力爆弾の理論を発見した」人のように思っている人も少なくない。しかし、アインシュタイン氏は反戦主義者としても知られていて、実際の原子力爆弾開発~製造~実験計画(=マンハッタン計画)には誘われてはいないし、参加していない。誘われなかった理由は、反戦主義者の彼が、計画の邪魔をする可能性を恐れられた為。つまり、アインシュタイン氏は、原爆製造には関与していない。勘違いしている人がいたら、脳内情報の訂正を。

アインシュタイン氏はユダヤ人の親を持って生を受けますが、けっして敬虔なユダヤ教徒ではなかった。氏が生きている間にイスラエルは建国されますが、母国ドイツ~兵役拒否して無国籍~スイス国籍~オーストリア・ハンガリー帝国国籍~ドイツ帝国国籍~ドイツ国籍~そして最後はアメリカ合衆国民として没します。実は、イスラエル建国には腐心したそうです。そして、第二代イスラエル大統領への就任を要請されますが、健康上の理由もあり辞退しています。それでも、ヘブライ大学に著作権を送るなどユダヤ人であることに幾ばくかの誇りも持っていた。

 

原子力爆弾はユダヤ人(ユダヤ系)が造ったと言われますが、それがアインシュタイン氏が勘違いされる最大の原因でしょうけど別の人です。マンハッタン計画の主導者はユダヤ系アメリカ人のジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(1904年4月生~1967年2月)。この人の卓越したリーダーシップが発揮されていなければ原子陸爆弾開発の成功は無かったとも言われることから「原爆の父」の異名で称されます。

日本人としてはオッペンハイマー氏の功績など称えることは出来ませんが、この人は、当初は、原子力爆弾の驚異的な破壊力を(実験段階で)見せつけて、戦争で使うことなど絶対に出来ないと思わせるつもりだった。それ以前に、核爆弾の存在を世に知らしめ、戦争を無意味化するつもりだったとも言っている。が、まるで通常爆弾のように広島と長崎で使用された。オッペンハイマー氏が第二次世界大戦後に残した言葉は「(物理の)科学者は罪を知った」。しかし、物理学者が広島、長崎をどんなに後悔したにせよ、狼は野に放たれたの如く、現在も核開発競争は続いている。

 

アインシュタインオッペンハイマー。両氏には親交もあったようですが、マンハッタン計画に参加していなかったアインシュタインは、プリンストン高等研究所の後輩でもあるオッペンハイマーが主導して製造した原爆投下を知り、そして両都市の惨状に絶句する。 「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説したアインシュタイン氏は、我が国をこよなく愛した外国人でもあった。来日自体は、1922年の43日間にも及ぶ滞在のみだったようですが、当時の多くの日本人と親交を持っていた。アインシュタインがご子息に宛てた(戦前の)手紙に「私が会った全ての人々の中で、日本人が一番好きだ。謙虚で物分かりや察しがよく、技術に対する勘があるから」と書いていたことは有名です。その日本に対して核攻撃を行ったアメリカ合衆国民であればこそ出来ること(科学者としてなすべきこと)を即座に実行する。

原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受けた事と、国連総会に対して世界政府の樹立を提唱した事。その二つは、相対性理論が原爆のような驚異的な威力の開発に生かされることを予想出来ていながら、まさかそれが戦争の武器になったこと、そして愛した日本へ向かったことへの 強い後悔の念によるものとされる。彼は、もしも広島と長崎を予見出来ていたのなら、1905年(特殊性相対性理論発表年)を無きものとしたいとも嘆いた。そして冒頭の言葉を残した。

つまり、再び核戦争を用いる第三次世界大戦が起これば、地球は文化の何もかもを失いただの石っころが転がるだけの星となる、と予言して世を去ったわけです。

 

ところで此方は、アインシュタイン氏の提唱した世界政府なんて絶対に不可能と思っていて、核廃絶も不可能と思っています。が、戦争は起きないに越したことはないし、核兵器も使われないに越したことはない。「もしも使った場合には・・・」の罪科云々の話より、絶対に使わないで済む建設的な話を欲します。理想論に過ぎないだろうけど、理想的な姿をイメージ出来なければ、それを追求することなど絶対に不可能。眠っている間にしか見れない夢より、皆それぞれが起きている間に必死になって平和構築手段を希求するべきだ。が・・・此方はもう眠いから寝る。快眠こそ健康の素であり、体の健康こそ心の健康に欠かせず、心の健康を皆が持てば戦争は起きない・・・かもね。

言葉を端折られる怖さ

前回、アルトゥル・ショーペンハウアー氏を賢才と持ち上げましたけど、奇才や異才と表記するのが正しい御仁であることは、この人の人物像を知っている多くの人が口を揃えることでしょう。

兎に角、自己愛に終始して、自分以外の者の才能を認めず、自分を高く評価しない者は敵と見做すか愚人と見做す。これほど我が侭な人も珍しいのですが、これほど我が侭な人に影響を受けたという偉人が多いのも珍しい。ショーペンハウアー氏に影響を受けたという人達は、この人の(孤独を屁とも思わない)強さに惹かれたのかもしれません。偉才、賢才、鬼才、秀才、天才、異才、奇才等々、特別な人達がしのぎを削るレベルの世界では、何ものにも動じない孤高の強さを持ったショーペンハウアー氏のような人に憧れる人が一定数存在するのは頷けます。世間の評価の良し悪しで作品の価値を決められてしまう作家や芸術の世界では特にそうなのでしょう。

 

ショーペンハウアー氏の我が侭ぶりを象徴する有名な逸話を一つ。

氏の友の一人と云われるゲーテヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ:1749年8月~1832年3月)から、或る時、「おまえの息子はきっと大成する」と言われた。普通なら嬉しい言葉です。ところが、"一家に一人しか大成する者は出ない"という持説を曲げないショーペンハウアー氏は、(彼は、自分のことを大成しないと思っている)という風に受け取った。友と言っても40歳近くも年上の先輩の言葉です。しかも、神聖ローマ帝国を代表する多彩な偉人ゲーテです。いくら自分に自信があったにせよ、素直に受け止めて「ありがとう」の一言と笑顔くらい返せばよいものを。尤も、この話は眉唾。この程度の作り話はあとからいくらでも書けますから。

そもそも、40歳近くの年の差がある人から見た時、ショーペンハウアー氏が何歳であろうと鼻たれ小僧の域を出ないでしょう。なので、「私から見たらまだまだお前には足りない部分も多くまだ大成したとは言えないし、大成したと言えるまでになるかどうかは分からない。が、お前の息子ならばきっと大成する。それほどおまえは優秀だ。」程度の事しか言えないでしょう。「おまえの息子はきっと大成する」という風に言葉を端折ると、その言葉の受け止め方も如何様にもねつ造出来る。

特異とされるショーペンハウアー氏の人物像には、後世が勘違いするようなねつ造話で脚色された部分が多々あるのかもしれません。ショーペンハウアー氏に限らず、歴史上の人々はそういうの多いでしょうね。

 

政治家の言葉、芸能人の言葉などもしょっちゅう端折られる。そして面白おかしい解釈が添えられる。にこやかに笑える解釈なら良いですが、悪意に満ちているものが少なくない。言葉(文節)を端折る、揚げ足を取る、そういう事を得意げに繰り返すマスコミギョーカイ人ってのは嫌いです。そして、まんまと騙されて悪意に加担する野次馬達も嫌いです。だから此方も、ただの野次馬にならないように人の言葉は最後までよく聞いた上で吟味しよう。

健康一番

多忙になったつもりはなくても、何でも先送りする怠惰な性格が災いして結構時間に追われてしまった。BLOG記事の書き直しくらいすぐに出来ると高を括っていたけど遅々として進まず、歴史系のBLOG記事の修正修了時期は全然見えません。

はてなBLOGでの書き直しが面倒なので、ライブドアにBLOG設けて、修正記事はそっちにアップ中です。何れは、こっちへ戻しますが2年以上掛かるかなと予想しています。

当BLOGは、同じ方法(修正記事をライブドア側にアップする)で全記事見直して、本日何とかはてなBLOGに戻って来ました。ブログのグループも、自分で作っておきながら失礼極まりなく放置してたのだけど、まだ存在してたので有難かった。暫くの間はライブドアBLOGにも同一内容の記事をアップしていくことになりますが、何れは元の鞘に納めるつもりでいます(ライブドア側の内容を変更する)。

 

昨年も夏前に感染症に罹って入院を余儀なくされましたが、今年もつぃ最近、細菌感染してしまいました。去年のは蜂窩織炎で、人に移す恐れがあり半ば隔離の意味合いもあり入院止む無しだったのですが、今年のは腸内感染だったので投薬で何とか治りました。でも、酷い下痢が一週間も続き(あ、食事中の人には申し訳ないです)、参った。そして治ったものの、この連日の酷暑。今夏は県内で酷い豪雨災害もあって、ボランティアさん達が被災地に大勢入っていらっしゃいますけど、ほんとにご苦労様です。此方は、健康回復に努め中ですが、県内なのにボランティアにも参加出来ずに本当に申し訳ないです。

===以上は、はてな限定===

 

偉人・賢人の多くに影響を与えたことで知られる哲人アルトゥル・ショーペンハウアー(1788年2月~1860年9月)は、「我々の幸福の90%は健康に依存している」という名言を残しました。まあ、その程度の言葉は、人類の歴史の中で10億人くらいの名もなき庶民が口にしたと思いますが、ショーペンハウアーのような賢才がそれを言えば名言として語り継がれます。健康であったが故に行かずに済んだ場所へ行き、不運な最期となった人も少なくないですが、何よりも健康が第一ってのは否定しようがない。今夏は、いつも以上にその事を感じています。いや、実際はもう数年前から夏は連日の猛暑であるのですが、年齢の積み上がったことと共に、今年は細菌感染による体力低下などが更に重なって、本当に健康こそが重要だと再認識させられました。

ところでショーペンハウアー氏は、「全ての苦しみを地獄の中に移し替えたら、天国には退屈しか残らないであろう」と言った。しかし、天国のような幸せな場所には退屈しかないのであれば、そっちの方が耐えられない。何の刺激もない世界を天国と思わねばならないというのはそれこそつまらない。だから・・・

人は(天国に等しき)平和を維持する為に、第一に健康を、第二に知性と孤独を愛し、第三に明朗であれショーペンハウアー氏は説いている。

知性と孤独を愛さねばならないというのは、言い換えれば、他人の考えを尊重し、たとえ孤独に陥ろうとも理性を失わない生き方を貫くべきだという事でしょう。そして常に健康的で朗らかであれば、けっして天国のような生活を失うことは無く、地獄のような苦しみ抜く日々とは無縁でいられるということ。

但し、他人の考えを尊重し過ぎてはならない。それは自分を卑下し過ぎることになる。驕り高ぶらず、静的で柔らかな心を持ち慎ましい姿勢は望ましいが、自分否定が過ぎて劣等感に苛まれることは不健康そのもの。何事も度を越さず適切に。そして他人とは適切な距離感で。距離感を間違うと過大、過少、過信の要因となる。周囲からは孤独に見られようと、それが周囲との正しい距離であるなら心が病むことはない。

哲学の言葉ってのは色々と教えてくれるけど、本の通りに覚えるのではなく、自分に理解し易く(言葉を)味わう。それが最も良い哲学書との付き合い方です。

恋の魔力

お金は人を狂わす(人を変える)と言われます。お金は、多くを得過ぎても、逆に失い過ぎても危険を伴う。ならば、貧乏であろうと金持ちであろうとそのどちらでもない普通であろうと、あまり変化がなく収入が安定していれば現在と極端に違わず狂うこともない。ところが・・・

お金は自分だけでは生み出せないが、自分にしか生み出せない"心の起伏"によって人は狂う(変わる)ことがある。そして誰にも変化を起こし得るのが「恋心」。

17世紀フランスを代表する劇作家モリエール(ジャン=バティスト・ポクラン:1622年1月~1673年2月)は、お金を描いた『守銭奴』や恋を描いた『女房学校』などで(それ以外にも多数作品あり)、人の心を茶化して見透かしています。特に女房学校では、 恋を偉大な教師に見立てる純情な青年(オラース)が、恋の力は別人にさえしてくれると言います。が、この青年が恋した無邪気な娘(アニェス)に同じように恋する金持ちの老紳士(アルノルフ)は、金の力で娘の心を操り結婚にこぎ着けようとする。

アルノルフは、市井に於いて、亭主が稼いで来た金を浮気相手に貢ぐような女達の多さを知り憐み、妻にするなら賢い(狡賢い)女よりも、無知(無垢)な女と決めていた。そして孤児のアニェスを引き取って修道院に寄宿させ育て、理想の女となったアニェスを妻に出来る日を待ち望んでいた。この辺りは、我が国の源氏物語で、光源氏が若紫を育て上げていくのをヒントにしたのではないかと思っています。ところが、親友の息子であるオラースがアニェスに恋をした。アニェスもオラースに惹かれていく。これに焦ったアルノルフはあらゆる手段に打って出るが、金の力に狂うアルノルフは、恋の力に狂うオラースに負ける。恋(愛)は金に勝ったという話なのですが、それもまた皮肉を込めているのでしょう。

 

恋する期間、人は相手に対して変化する。金を持っている期間だけ人がハイになるのと同じ。だが、恋が成就した時、恋を持続することは難しい。そして、心に鍵は掛けられない。もしも、次の誰かに恋した時、新たなる教師によって変えられた人は、前の恋を見限ってしまう可能性を大いに秘めている。金の終わりが付き合いの終わりとも言われる人間社会では、恋の終わりも(男女の)付き合いの終わりになり得る。

であるならば、恋するのはいとも簡単だが、恋の持続ほど困難なものはなく、故に、恋の持続を成す努力を怠った時、人は(一つの)幸せを失くすと考えられる。それが、最後の幸せであったかもしれないのに、先のことなど何も考えずに人は恋に走る。男であろうと女であろうと、恋も金も大切にしなければ変り果てる人生となる。

野獣だって愛を知る

エロチックなアニメーションなどでは、魔界の邪悪なものによって人間の女が凌辱されるというものも少なくないが、世の女の被虐趣向がそのような話を求めたのか、世の男の変態性欲がそのような話を求めるのか、まァ、阿保って言えば阿保です。特に前面にエロチック性が出ていないものでも、怪物が人間の女を襲う話は数多ある。自分では果たせない"美女凌辱"を異種生物に任せてそれを見て興奮しようってのは、世の男も見下げ果てたもんです。けれども今に始まった事じゃない。特に神話を持つ国にはそういう話が溢れ返っています。寧ろ、神話にはそういう内容が多い。そして、中には異種婚姻譚へ向かう話も・・・

 

異種婚姻譚と言えば、最も有名な一つが『美女と野獣』。

この話は、ヴィルヌーヴ夫人(ガブリエル=スザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ)が最初に書いた長編(1740年)と、それをボーモン夫人(ジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモン)が書き直した(1756年)短編の二つが存在する。

最初の原本(ヴィルヌーヴ版)の方が好きなんですが、それはさて置き、異類婚姻譚の話も世界中に溢れています。しかし、人間が、人間とは違う生き物と結婚する話の結末は、人間に愛された異種生物(疑似人間)が、愛の力により人間になるというものが少なくない。人間になると言うより、元々は人間だった者が、魔力によって異種に変えられ、最後は人間に戻る、という話も多い。『美女と野獣』の結末も、ラ・ベルに愛された野獣が最後は人間の姿に戻る、それも美男の王子に、というもの。

美女と野獣』は結構好きな話で、テレビドラマ版や映画版とか結構見てます。ですが、不満もあるのですよ。

 

此方などは、既に、老いぼれ野獣(野獣は飾り過ぎで、実際は腐乱物のような者)であり、でも、ラ・ベルのような美女に好かれるなら(受け入れてもらえるなら)それは物凄く嬉しいよね。そりゃ、世の男ども皆そうに決まっている。が、どうせ愛してくれるなら、老いぼれたおっさんの姿のままを愛してほしいし、若返った美男になろうとも思わない。例えば、最近、ジュリー(沢田研二)が老いを隠さずにライブやったみたいだけど、それがかっこいいと思う。若い頃のジュリーはモテまくったけど、その頃のジュリーにはもう戻れない。でも、現在のジュリーを愛する若い女性ファンがもしもいるのなら、その女性はジュリーの老いを受け入れて尚好きだってことだよね。若いジュリーじゃなきゃ嫌だってことじゃない。

その理屈で、野獣が王子だって意識せずに野獣のまま愛したラ・ベルに、最後まで野獣のままで居て欲しかったかな、と。どうせなら、野獣のまま愛されて、そのまま死んでくれた方が面白いのに・・・。ラ・ベルは、野獣という外見も全て受け入れ野獣を愛していると叫ぶわけだから、そこで美男の人間に戻るなよ、って思うのはダメですかね。実は美男王子だったというオチだから、世界中の女性を魅了したのでしょうけど。此方なら、美女を野獣のままで愛したい。男ってそうだと思うけど?外見とか環境に関係なく好いてくれる相手だからこそ愛したいとか。ま、夢のような理想論ですけどね。

マスコミ最強

ヒアリ(火蟻)の拡大繁殖報道が止まない状況になっています。草むらなどに用心どころか、芝生の上に安易に寝転ぶことさえ迂闊に出来ないのであれば不自由で困りますね。因みに、ヒアリは元々南米原産のハチ目アリ科の生物らしいので、支那も被害国と言えます。

ヒアリに限らず、害虫に限らず、生物に限らずコンピュータ・ウィルスに至るまで、"被害"の拡大が強く懸念されると必ず登場するのが"駆除業者"。悪質な犯罪被害が拡大すれば"防犯業者"。という風に、誰かの不幸は誰かの幸運となり「風が吹けば桶屋が儲かる」状況となる。

そういう事だから、コンピュータ・ウィルスやセキュリティ対策ソフトウェアの開発~導入を得意とする企業には、昔から、実はウィルスを作ったりハッカー行為をやっているのは彼らでは?という黒い噂が付きまとう。

病原菌(各種インフルエンザその他多種)研究~治療薬開発などで成功を重ねる企業にもそのような噂は出て来るし、防犯会社こそが犯罪集団を雇っているのでは?みたいなトンデモ論も出て来る。

確かに、人が困る状況下でこそ利益拡大する企業は存在する。例えば政治が上手く行っていない時に良く出て来る「行政改革」には法改正が必要。法改正がある度にコンピュータシステムは何らかの手直しか、或いは新規開発が求められる。故に、経済悪化の時こそ利益拡大するシステム開発業者だってある。

株式相場の理屈はそのように出来ていて、経済が上昇気流の時には買って買って買いまくって儲け、経済停滞期には売って売って売りまくって儲ける仕組みとなっている。他人の不幸は蜜の味、という事ですが、それが人間社会の構造なので致し方ない。医者は患者がいなければ成り立たないし、葬儀業者は人が死ななきゃ成り立たない。残念ながら技術革新を戦争が支えている側面もある。悪い時には全員が悪くなるのなら社会は二度と立ち直れない。悪い時にこそ力を発揮出来るシステムが社会には存在するので、「明かない夜はない」「止まない雨はない」事を信じられる。

 

以上のことを前提に本題(いつもながら前提が長過ぎて申し訳ないです)。

テレビ放送局は視聴率が支えている。CM契約料金も視聴率が前提。世帯からの視聴料収入で成り立つNHKでさえ視聴率を大いに気にしている。ドラマには当たり外れもあろうけど、ニュースやワイドショー系の視聴率を支えているのは"政治・経済"です。が、人々は、社会が順調な時にはニュース報道を気にしない。つまり、経済も好調で政権与党の支持率が高い時には明るいドラマの視聴率が全体的に高く、ニュースやワイドショーの需要はいくらか低くなる。しかし、「ドラマなんか見て笑っていられる気分じゃない!」というような経済状態となったり、政治がスキャンダルを多発すると、ニュースや政治を扱うワイドショーが連日賑わって来る。そうなると自然と新聞や週刊誌も売れて来る。社会が不幸になればなるだけマスメディアは儲かる(忙しくなる)。このロジックに照らし合わせると、マスコミ業界で働く人達は、世間の幸福を喜ばない、世間の不幸を殊のほか歓迎する、という事になる。だから、悪意にも思えるほどに弱者に転じた者をこれでもかと追い詰める。極論、誰かを悪者に仕立て上げれば仕事になる、というのがマスコミ業界。必然的に、政権与党の功績を欲しがらず、失態を求める。だから反政府=批判権力と映る。映るというよりも批判"権力"そのものです。

マスメディアが悪い方へ悪い方へ報じるから、視聴者や読者も洗脳されて悪い方しか見なくなる。マスコミの悪意に捕まったら大半の者は骨の髄までしゃぶられて腐れ果てるのみ。政権与党だって首相だってその例外では無い。

好調な時は当たり障りなく接し、少しでもミスしたらそれ見た事かと躍起に立って執拗に責め立てる。マスコミ関係者の中には、本当に反国家主義者も居るでしょうけど、総じて反国家主義者ではないでしょう。それは当たり前ですね。「仕事をしたい!」というのは誰だって同じ。そして、政治・経済に不透明感が漂ってきてからこそ彼らの忙しさは本格化する。彼らはイキイキとした表情で"嬉しそうに"政財界を糾弾する。それに対して腹立たしさを覚える者達は彼らを「マスゴミ」と揶揄する。しかし、何があっても儲けられる仕組みを持っている彼らは、先行き不透明な社会に怯え情報を欲しがってテレビや新聞、週刊誌、ネットから逃れられなくなる者達がいるからこそ儲かる。だからより一層社会不安を煽る。今、正にそういう状況にあり、現内閣も風前の灯か。

「賢人の知恵」のご紹介

スペインの美術、音楽、文学が最も隆盛した15世紀から17世紀を「スペイン黄金世紀」と呼ばれます。その中でも16世紀中頃から17世紀前半までは「黄金の80年」とも別称される。それが何年に始まって何年に終わるのかは明確にされず、そこら辺が如何にも大らかなスペインらしいところでもありますが、実は、没落が進む80年でもあった。1588年のアルマダ海戦でスペインが誇った無敵艦隊イングランド海軍に敗れます。それを皮切りにしてスペインは次々と制海権を失い、遂に80年戦争(1568年から1648年)でもネーデルラント独立解放軍に敗れ去る。これでネーデルラントはオランダという新たなる国名を持ってスペインからの独立を果たします。オランダに独立されたスペインの威信は地に堕ち、ヨーロッパにはイギリスの時代が到来することになる。

この激動の17世紀に、スペインを代表する著述家バルタザール・グラシアン(1601年1月8日生~1658年12月6日没)が活躍します。スペインを代表すると書きましたが、高名な哲学者フリードリッヒ・ニーチェは「ヨーロッパはいまだかつて、これほど精妙にして複雑な人生の道徳律を生んだことはなかった」と記しています。またニーチェと同じくドイツ哲学の偉才として知られるニーチェの師でもあるアルトゥル・ショーペンハウアーも「人生のよき手引書である」という言葉を残し絶賛しています。現代では、世界的なテノール歌手ルチアーノ・パバロッティが愛読書として挙げるなど多くの偉人・賢人がバルタザール・グラシアンの書を読んでいます。欧米諸国では、マキャベリの「君主論」と並ぶ不朽の名著と称され数多の人に読み継がれているのが「賢人の知恵」。

 

我が国でも愛読書としている人は多いと思うのですが、神道国及び仏教国である我が国では、聖職者(グラシアンはイエズス会の修道士でもある)の書いた人生訓は生真面目で禁欲的で理想論に過ぎないと敬遠されることも多い。ですが、毎朝神棚に向かい柏手を打ち、仏壇に向かい般若心経を唱える此方でも、この本は素晴らしいと思いました。

日本もまた、グラシアンが生きたスペインのように、戦争に敗れ黄金期が終わり、戦後経済の急拡大もそのバブルも弾けて終わり、という風にけっして順風満帆な社会ではなく、寧ろ不安定な政治経済で先の見えない不安に怯える人が少なくない。故に、この本は、多くの人に良いヒントを与えてくれそうな気がします。

 

此方は、確か去年の秋頃に中古本屋で200円で買いましたが、いや、200円でこれだけ読みごたえがあれば本当に嬉しいです。新品でも1700円で買えます。書いてある内容をイチイチ此処で書いたりはしませんが、良書は、触れる機会があるのなら先ず触れてみるべきです。内容が合わなければ読み進めなければそれで済む。最初は書店の棚で手に取ってちょっと中身を拝見させて頂いて、これは、と思ったら財布と相談して買えるなら買ってみる。買えなきゃ何度か通って立ち読み繰り返す。本当に欲しくなれば買う。200円は、焼酎一杯分より安く済み、焼酎一杯分より遥かに味わい深い。これはお薦めです。多くの人は既に読んでるでしょうけど、読んだことない人は物は試しに読んでみて下さい。