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知っていること、知らないこと、知りたいこと、知りたくないこと・・・ この社会に対して色々思う事を書いてみるBLOGです。

宗室の遺訓、第二条の怪説他

九州におけるキリスト教布教の実態と九州の大名や諸豪族が当たり前のように鉄砲を保有している様を直に知って危機意識を強く持った。九州各地に勢力が分散していればまだしも、豊後が薩摩との戦(耳川の戦い:1578年)に敗れて以降は、薩摩が九州全体を平定しまいそうな勢いを見せていた。薩摩の北上に対しては博多の商人達も恐れ戦いていた。

自由商業都市は政治権力とは一線を画すべき。

政治と癒着する事業は必ずや廃れる。

という認識を持っていた筈なのに、博多の商人達のリーダー格であった島井家と神屋家は、織田信長を頼ろうとする。「権力には頼らずに島津にも屈しない」という選択肢は無かったのでしょう、けれども、相手が(堺と上手に付き合えていた)信長であれば博多が取った行動は間違いではなかったのかもsれません。しかし、信長は中国の毛利攻めに挑む寸前に光秀の謀反に遭い本能寺で討たれた。博多の商人達にとっても驚愕の大事件となったが、信長の代わりを秀吉に求めてしまう。秀吉は、信長とは異なり堺も自分の権力の内に置こうとした。千利休を政治利用したこともその表れ。そのことを博多の商人たちも知っていたが、「島津よりはマシではないのか?」という思いもあったのだろう。そして博多は秀吉の九州征伐を支持した。

西洋文化に毒されてた(と、秀吉には見えた)九州を秀吉は何としてでも平定して自分の目の届くようにしなければならなかったのだが、博多の財的・物資的・そsて情報的な支援を受け遂に九州平定を成した。博多も薩摩の脅威を防ぐことに成功した。が、秀吉は博多という自由商業都市を守るために九州征伐を行ったわけではなく、西洋文化を断つための戦。博多にとっては、南蛮交易も大事な収入源であり、秀吉とはそもそも考えが異なっている。秀吉は博多復興を餌にして商人達を利用し、商人達は薩摩を排除する為に秀吉を利用した。お互いに、相手の利を考慮したのではなく自分の利だけを優先している。この関係が上手く行くわけがない。そして事はその通り(上手く行くわけがない通り)に進む。

秀吉は、利休を切腹に追い込んだ(1591年4月21日)。この大事件は博多にも激震を走らせた。特に島井宗室は、秀吉と手を組んだことを大いに悔いたと思われる。そして利休を切腹させた翌年、遂に秀吉軍は朝鮮へ渡る。宗室は、大きな顧客であり富の源でもあった大陸と戦することに猛反対するが、大権力者秀吉には聞き入れられなかった。秀吉は、自分こそが支那の王朝を簒奪して大陸に君臨するという野望に取り憑かれていた。自分だけが日ノ本を西洋の魔の手から救える者だと思い込んでいた。家康でさえ、秀吉を止めることが出来なかったのだから、博多の商人では太刀打ち出来ない。

 

西洋文化に飲み込まれる事を極端に恐れた秀吉は、それを避けるには、図体をでかくしなければならないという大国思想に陥った。島国であることを危険だと思い込んだ秀吉は、支那(明朝)のような大陸に大きな領土を持つ国家になろうとした。早い話、自分たちこそが支那王朝になろうとした。嘗てのモンゴルのように・・・

有り余る人口と軍隊・戦術と資金を有しているのなら兎も角、国力以上に図体を大きくして防衛圏を広める考えは愚の骨。秀吉は、立身出世し過ぎて自惚れ、夢も現実も見えなくなっていたとも考えられます。そして、家康でさえ止め切れなかった。

地理も良く分からない、言葉が通じない敵地に攻め入って何とか出来ると思うこと自体、相手を甘く見過ぎです。鎌倉幕府時代に、我が国を甘く見た元朝と高麗軍の大失敗をもっと学習するべきだった。大義の無い戦を仕掛けて良い結果が返って来る道理が無い。

  

公家や武将の家柄ではない庶民の出の秀吉は、当時の日本国民の英雄でした。それまでの領主が廃されても、下々の気持ちが分かる秀吉なら生活を変えてくれそうな気がして熱烈歓迎され、多くから協力も受けました。しかし、明朝や朝鮮にしてみたら、下っ端に見ていた国(日本)の為政者を英雄視しなければならない理由は何も無い。当然ながら、ただの侵略者に過ぎない。武力で圧した外国を安定した政治下に治めるのは容易な事ではない。

自国の図体だけを大きくしようとした秀吉には、外国人の気持ちが読めなかった

 

秀吉軍が攻め込んだ情勢に激怒した明朝を巻き込み、朝鮮半島の各地は戦場と化し荒廃する。1592年から始まり途中5年の休戦を挟み1598年の秀吉の病死でやっと終わますが、この朝鮮出兵の不平不満もあり豊臣政権の基盤は揺らぎ、徳川の世へと変わります。

家康は、博多の商人、特に島井と神屋を冷遇します。家康にしてみたら、この二人は豊臣の野望を財政面で下支えした悪党に見えていたのでしょう。徳川の政権は15代も続いた。その中で、島井や神屋の勢いは消えていきます。が、本当は自ら失敗を重ねた結果、豪商の姿を維持出来なくなったということ。特に島井家の後裔達は、折角の遺訓を守れなかった面があるからだとも言われている。今回は第二条の怪説です。(前置き長過ぎで申し訳ないです)。

第二条には、大体次のようなことが書いてあります。

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50歳になるまでは、来世のことなど願ってはならない。(つまり、生まれ変われるなど努々思ってはならぬ。今を一生懸命に生きるべきだ、ということ)。老人になれば願ってもよい。

浄土宗・禅宗などは信仰してもよいがその他は認めない。キリスト教だけは、たとえ尊敬も出来て信頼も出来る者から勧められても絶対に信仰してはならない。理由は、キリスト教では10歳になると早くも宗旨立を行って、来世のことばかりを気にして毎日を過ごすと言われる。(日本人たる者が)檀家を捨てて教会に参り、十字架を首にかけて大事そうにしておることなど、非常に見苦しいからである。家族を心配しなければならない人にとって、(キリスト教の信仰は)最大の災いである。現世や来世のことを弁えている人は、10人に1人もいない。

人間以外の鳥類や畜類だって、今、生きることに必死でいる。人間も彼らと同じなのだから、現世のことを見失ってはならない。来世のことは、仏様でも解らないと仰せのこと。仏さまが分からぬことを、ましてや、人間如きが知るよしもない。50歳になるまでは、来世のことを心配する必要など一切ない。

「付記として書くが・・・」

人は、2歳、3歳、10歳、20歳でも死ぬものである。40歳、50歳にならないうちに死んだとしたら、その人の家族はその後どうなるであろうか?その時には2、3人の子どももいるであろう。親が早死にすれば、子どもたちはその後(真っ当には)生きてはゆけない。 

===

とは書いてあるが、財を成した豪商でも認識のズレはあるものです。今を必死に生きよは正しいが、そして来世など思うなも正しいが、此方にはたとえ話がチョットね。

 

※(3)へ続けます

宗室の遺訓のイの一番

島井宗室(1539年生~1615年没)は、天下人・豊臣秀吉の朝鮮遠征を何度も諫め、遂に秀吉の怒り心頭に発し蟄居を命じられます。対して、宗室と同じく「博多三傑」の一人である神屋宗湛(1551年生~1635年没)は、秀吉に最も重宝がられ「筑紫の坊主」とも呼ばれた。

宗湛は、朝鮮出兵で後方兵站の補給役を務めるなど、晩年の秀吉の側近として活躍して莫大な富を蓄積します。が、宗湛は独り占めを目論んだわけではない。宗室の蟄居を解くため尽力し、それは叶う。そして宗室を説得。結局、宗室も秀吉の支援に回り同じように富の蓄積を得た。宗室の養嗣子である徳左衛門は、神屋家の者。つまり、島井と神屋は親戚関係にもあったわけです(三傑のあと一人、大賀宗九は元々は豊後中津の商人。黒田家が筑前へ移封された時に、中津から博多へ移り住んだ)。

 

島井宗室の島井家というのは、元を正せば藤原北家の血筋で、代々は「藤氏」を名乗っていた。が、次郎右衛門茂久の代より島井と改姓したとされる。大内氏全盛の頃から明や李氏朝鮮相手の交易を行い巨万の富を築き博多に還元していく。つまり、島井あっての博多だったと言えなくもない(勿論、神屋家も共に博多の繁栄を支えた)。

宗室の『十七条の遺訓』は、1610年頃に徳左衛門に宛てて書かれたもの。その5年後に宗室は世を去りますが、晩年の宗室は、家康とは肌が合わずに(家康は、九州が嫌いだった?)徳川方からは冷遇されたと云われます。それでも黒田長政を支え福岡城の築城に尽力。金銀や材木、名物茶器の寄進など、惜しみなく協力したとされる。

 

今回は、十七条の内の第一条だけ怪説します。参考文献は、吉川弘文館から出版されている田中建夫さん著の『島井宗室』。また例によって中古本のお世話になりました。

第一条に書いてあることを要約すると、大体次のようなことであろうと思われます。

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生中(生存期間)にあっては、常に貞節な心でいること。そして律儀であること。また言うまでもない事だが、両親、兄弟、親戚などとは仲良く、そして孝行を忘れずに。その他、知人に対しても、また寄合においても、接する相手を必ず立てて(敬って)、礼儀正しくすること。

無礼な振る舞いなどは決してしてはならない。また、嘘を吐くこともならない。例えば(信頼叶う)人からの伝え聞きであったにせよ、嘘に似たことを口にしてはならない。(つまり、自分で確認出来ていないことを軽々に口にしないこと)。

総じて、口喧しいような人は他人からは嫌われるものである。そのような者にはなってはならないし、また、そのような者と付き合うことは自分のためにならない。

自分の目で見て、耳で聞いたことであっても、後々の(面倒に巻き込まれそうな)証拠となり得ることであるなら、他人から聞かれても軽々に答えてはならない。(つまり、知ったことが良くないことなら心に閉じ込めよ。かな?)。誰かの方言(一方的な悪口)、中言(間に割って入って双方の悪口)、何れにも耳を貸してはならない。(つまり、悪口に耳を貸せば悪口に加担したことにもなる。悪口を言う人に対しては諫めることもせよ、かな?)。 

===

十分に、現代にも通じる訓話です。

東長寺の『千字本』怪説

博多の東長寺には、空海上人の筆による千字文が収められています。が、これは、織田信長最期の寄宿所となった本能寺の居間に、信長自身の手で掛けられていたものです。どうしてそういうものが博多にあるかと言うと・・・

信長が本能寺に招いていた主客が、博多三傑の内の二人、島井宗室と神屋宗湛であった。宗室と宗湛が信長と謁見した理由は、信長の庇護を受けることで博多を守ろうとしたこと。

 

当時の博多は、堺と並ぶ自由商業都市であり、自由商業都市であることを豊後の大友宗麟から保障されていた。が、信長から追放された足利義昭中国地方の大名・毛利家を頼った時から大友一人勝ちだった北部九州の勢力図がおかしくなる。

毛利は元々九州を狙っていて、義昭の力を利用して大友の威力を削ごうとします。義昭が、自分の権力を信長から取り戻す為に全国の武将たちへ無数の手紙を送っていた話は有名ですが、その手紙は九州の諸将へも数多送られていた。この"元将軍"からの文を利用して、大友の利権を奪おうと目論んだのが肥前佐賀の龍造寺氏や筑前の秋月氏。それまでは大友の力の前に屈服し臣下的でもあったのですが、義昭からの直文に心が躍ったわけです。つまり、自分達も義昭から見たら強大な宗麟と同列だと。そして宗麟の最たる商業利権地である博多を奪取しようと試みる。これで博多は徐々に荒廃していくのですが、それでも大友は何とか博多を守ろうとはしてくれた。しかし、自由都市を理解出来ない毛利や義昭や龍造寺などは博多を破壊することも厭わなかったと思われる。

更に、義昭の手紙を利用したのが薩摩の島津。それまで、薩摩と豊後はお互いを不可侵とする良好な関係にあったのですが、詳しい経緯を書くと長くなるので割愛しますけど、日向の支配を巡って対立が激化。島津は恐らく、義昭への謁見を理由に北上(進軍)を開始します。これに対抗しようとした大友との間に、九州史上最大の激戦の一つとされる「耳川の戦い」が、現在の宮崎県木城町辺りで繰り広げられます。そして勝利するのは薩摩の島津。

大友の勝利を願っていた博多の商人たちは大慌て。龍造寺や秋月なら何とかあしらう手もあったが、相手が島津となると一筋縄ではいかない。博多が薩摩の直轄地となれば、薩摩から遠い博多は廃れていくかもしれない。それよりも、商人たちの利益を島津家が武力を以て次々と吸い上げていくであろう。などと恐れた博多は、三傑が中心となって防衛策を講じた。その防衛策の最たる相手が、同じような自由商業都市の堺を大事に扱っていた信長だった。

 

そして、天正10年(1582年)に安土城で宗室と宗湛は信長と謁見します。信長自身が中国攻め(毛利攻め)の意を本当に決したのはこの時とも言われますが、信長としても博多を見たくなったのでしょう。

特に、信長は宗室と茶器談義で意気投合。そして二人は信長に主客として本能寺に招かれて宿泊。翌日は大きな宴が催される筈だった。ところが、その明け方、明智軍が本能寺を急襲する運命の時が訪れます。ここであまり知られていないのですが、信長は、宗室と宗湛を脱出させる。信長との今生の別れを察した宗室は、上述した空海上人筆の千字文を譲り受け信長の形見の如く博多へ持ち帰る。それを、空海上人ゆかりの地でもある東長寺に収めたというわけです。

 

博多は信長の庇護を受けることは出来なかったが、織田に取って代わった豊臣秀吉と手を結ぶ。秀吉は博多の復興を約束して、博多から多額の軍資金の提供も受けて九州征伐へ乗り出して来る。でも、秀吉と信長は別ものだった。秀吉は、博多の交易相手であった外国を攻撃してしまうのであった。

ところで『千字文』とは?

早い話、子どもたちに漢字を教えたり、書の手本として用いる為に書かれた漢文の長詩で、1000の異なった文字を使われていることで「千字」。それを書いたのは、支那南朝・梁時代の周興嗣 (470年生~521年没)。この人は、皇帝(武帝)の命を受けて千字の詩を一夜で書き上げたのですが、この詩作により、その一夜で白髪になったとか。この千字の詩はその後様々な人が書き、筆の達人・空海上人もその一人だった。・・・という怪説でした。

信長の大望、秀吉の野望

民に対して「栄えろ!」と命じた織田信長

自らが栄えようとした豊臣秀吉

 

民を富ませる事が国を富ませる事と理解した信長は、民に対して新たな物へ興味を持たせる事を考えた。「新たな物、物珍しい物なら欲しくなるだろう。」と単純明快且つ合理的な考え方が出来る信長は、魅力的な市場の育成に取り組み、物珍しい商品を流通させようとした。楽市・楽座を広め(※楽市・楽座制度そのものは信長の発案ではなく、六角氏や今川氏の商業制度を信長も織田家に導入し、それを改良したと言われる)、規制緩和を拡大。商人がより商売し易く、民衆がより買物し易い環境を整備しようとしていた。信長の楽市・楽座では、武士も町人も分け隔てなく売買が行われる。そして、民が喜ぶような新しい物、物珍しい物は何処にあるか?信長の答えは明快で「海の遠く向こう側には必ずある」だった。

 

尤も、信長が最初から「民を富ませれば国も富む」という考えを持っていたわけではない。持っていたわけではないと断言出来るのは、当時、堺や博多と並ぶ、もしかするとそれ以上に栄えていたかもしれない伊勢・大湊を、自分の権力の範疇に収めようとしたこと(=伊勢侵攻)。

当時の大湊は北畠その他畿内武家のみならず、今川、北条、武田など多くの武家と交易関係を成立させていた。それは、堺や博多の商人たちの姿勢と何ら変わらない。但し、博多は畿内やまして東国の諸大名からは遠かった。そして、伊勢を織田家が支配したことにより、東国の諸将にとては、堺が唯一「珍しいもの」を仕入れられる都市と言って言い過ぎない状況となる。が、堺の会合衆たちは信長贔屓の姿勢にあり、物珍しいものをいち早く手に入れられるのは信長という状況と化した。伊勢・大湊は、信長の台頭に対する最たる犠牲者と言える。が、逆に考えれば、伊勢・大湊の繁栄が犠牲となったことで、信長の天下取りが加速され、やがて、信長も自由な商業都市の重要性に目覚めたとも言える。

 

「物が欲しければ富めよ、栄えよ。」と民を導いた信長ですが、それを「働かざる者食うべからず」と命じられたに等しいと感じた人たちもいたでしょう。けれども兎も角、信長は民に儲けさせる市場経済の確立を目指した。民が儲け、それによって国家の金回りを良くして財政基盤を強くする。現代の日本社会が目指していることを信長も目指していた。

信長は、ついて来れない者は容赦なく切り捨てたのかもしれない。今の民主政治ならマスコミが騒ぎ立て政権は崩壊する。しかし、主導したのは信長ですから誰もが必死についていこうとする。そして、武士だけではなく商人や文化人も台頭して行く。逆に、身分や家柄だけで生きていた貴族たちの中には没落して行く者が少なくなかった。そういう者達の抵抗は凄まじかったが、信長は遮二無二改革路線を突き進みます。けれど、信長の夢は本能寺に燃え尽きます。

 

秀吉は、自らの立身出世ぶりを見せて民を喜ばせようとしていた。だから、民が儲かるよりも先に自らが儲けようとした

全て、自分の考えが最優先で人の意見を聞けなくなった。信長は家臣の正しい意見は聞き入れたし、何よりも知らない文化を習う姿勢があった。秀吉の立身出世物語は面白いけど、天下人となった事で有頂天になり過ぎて、分を弁えるどころか、笑うしかないような大それた夢を見た。支那王朝の座を本気で奪おうとした。

 

信長は邪魔になるものを武力で圧する事をしたが民が儲かる事は嫌わなかった。寧ろ、どんどん儲かって海外の良品を仕入れて来る事を喜んだ。そして、何れは日本を地域一番の貿易国家と成して西洋との対等を望んでいた。

秀吉は、大国になる事で西洋に対抗しようとした。だから支那を目指した。

 

信長が目指したのは(世界の)何処とでも対等な貿易が出来る経済国家。

秀吉が目指したのは自国の大国化~世界の覇権目指したものの質が違います

 

しかし、秀吉の行動にも一理ある。信長が見られなかったものが見られた。それが、九州に於けるキリスト教布教の実態。その洗脳の凄まじさに対して、スペイン・ポルトガルの狙いを「日本の植民地化」と判断してバテレン追放を決断します。更に、西洋による支那侵略の可能性が有り得ると判断し、それならば、そうなる前に日本が支那と成り変わって西洋と対決しようと考えた。

歴史において「何が正しくて何が正しくなかったか」というのは、後世の者による勝手な評価に過ぎません。実際にその時代に生き、初めて西洋社会と接した人達の判断は、現代人の思考では到底及びもつかない。正しく理解する事は困難です。此方は秀吉による朝鮮遠征を「馬鹿な事を・・・」としか言いませんが、秀吉の考えを理解出来なくもない。秀吉と同じような事を後の大日本帝国も考えた。朝鮮半島を西洋に奪われて我が国に危険が及ぶよりは、我が国が併合してしまおう。その考えで韓国を併合した。でも、やっぱり「馬鹿な事を・・・」と思います。

外国の製品だから物珍しく思うし欲しくもなる。外国だから行きたくもなる。食ったことのない物を食ってみようと思う。そこが同じ国なら、同じ国の製品だとしたら、別に行きたくもないし、どうしても欲しいとは思わない。大日本帝国には、秀吉になれる人はいたかもしれないけど、信長になれる人はやっぱりいなかった。・・・という怪説でした。

政治権力をあてにする事業(町)は廃れ行く

15代約250年続いた室町幕府に取って代わり、京の実権を掌握した織田信長。しかし、足利将軍家を排したとは言うものの、日本全土が「信長の天下」になったわけではない。特に、当時の九州などは織田家に屈したわけではなかった。 

信長が、一目置かれる存在となる以前から自由交易都市・堺の会合衆と結び付いていたことはよく知られています。堺の会合衆を介して"海外"に対して強い興味を持った信長ですが、信長が求めた"海外"は東洋を超えた。仏教を重んじ、明朝との交易を対外政策の主体に置いていた足利幕府の姿勢とは打って変わり、信長は、西洋社会の文化・技術を積極的に導入しようとしていたと言われます。

 

その頃、堺同様に会合衆制度が発達していたと言われているのが伊勢、酒田。そして博多です。

奈良や京・滋が政治活動の中枢となった我が国にあって、政権中枢に遠かった九州は時代に取り残された田舎であったかもしれない。が、16世紀になると、南九州に押し寄せた西洋文化(南蛮文化)の波が九州全土を飲み込み、キリスト教の布教活動と共に九州の文化を大きく変えて行きます。そして西洋文化は、博多で大陸の文化とブレンドされる。博多は独自文化色を強め、当時の日本の何処よりも一風変わった賑わいを見せて行く。

 

博多の豪商と言えば、島井宗室神屋宗湛大賀宗九。この三人は「博多三傑」と称せられて、現在でも、「博多山笠」の飾り山などに登場したり、地元では、博多発展の礎を築いた商人として尊敬されています。この人達の風貌は皆似通って、頭髪は総剃り、茶人風。名もそれぞれ「宗」を取り、如何にも堺を意識していた。そして堺の会合衆に引けを取らず、当時の我が国では指折りの大資産家だったと云われます。 

博多が商業発展する一方、ポルトガルやその背後にいたスペインによるキリスト教伝来が一気に加速した九州各地では、鉄砲の安価購入の見返りに改宗してキリシタンとなる武家が増える。九州はミニ・西洋となりそうな雰囲気さえ持っていた。

鉄砲主体の西洋戦術が多用され、九州の各武家の主達は、信長よりももっと早く、「西洋を学ばない者は勝ち残れない」時代を意識していた

 

信長は、自分が日ノ本で一番西洋文化を理解しているという自負があったでしょうし、堺の会合衆は、自分達が日ノ本随一の商人であるという自負を持っていたでしょう。そして、信長亡き後に政治中枢に座った秀吉もそのように思っていた。しかし・・・

九州へ向かった清正らから秀吉へ齎された情報はまるで違った。

博多は堺に匹敵する商業都市であり、九州はキリスト教化が進み、西洋の武器が溢れていた。それは大いなる脅威であり、九州に大大名が出現する前にそこを制圧することが秀吉の天下統一の野望には欠かせなくなった。秀吉の九州制圧戦はイチかバチかの賭けに等しかった。が、何とか九州征伐は成功する。その成功は、博多三傑他、商人や豪農たちが、武器調達や資金面、食料補給面などで秀吉に協力したことで成せたと言って言い過ぎない。

そして秀吉は、博多商人たちや宣教師たちから大陸の話を色々と聞いた。秀吉は、現在云われる程無鉄砲に大陸を目指したのではないと思います。大陸の事情を聞き、勝てるという自信があったから、博多商人が大反対したにも関わらず、愚かにも侵攻したのでしょう。

博多は、大陸との交易で発展した町です。お客さんを攻撃するなどとんでもない事だった。特に、島井宗室は頑強に抵抗し、自ら朝鮮に渡り当時の朝鮮国王と戦争回避を画策するがそれには失敗。その後も秀吉を恐れずに諫言するが秀吉から蟄居させられる。そして文禄・長久という二つの戦が繰り返された。

 

明朝は、自分達の方が圧倒的に強いと思っていたのなら、無礼な日本列島へ向けて攻撃を仕掛けた筈ですが、歴史を知る漢人たちは、元寇での我が国の圧勝劇を気にかけていた(不気味に思っていた)。だから、攻撃を躊躇っていた。そうしたら、秀吉軍の方が先に仕掛けて来て、日本の大軍勢が朝鮮半島へ渡って来た。日本への上陸が上手く行かなった元朝軍とは違い、日本の武士達は上陸には成功し、朝鮮半島の内部へと進軍する。刀や鑓、弓だけではなく、多くの鉄砲を持つなど武士たちの装備にたじろいだ。朝鮮人も明朝の漢人たちも、日本人を「蛮族」扱いして蔑んでいた。野蛮人が鉄砲を駆使するなど思っていなかったでしょうね。日本人などサルと一緒程度にしか見ない人たちですから、我が国に西洋文化が浸透していたなど夢にも思っていなかったでしょう。

結局二度の戦の両方とも戦局が長引き、補給に苦しんだ挙句に日本の武士たちは押し返されて、多くの犠牲を出して事実上の敗北を喫す。秀吉の権勢も翳り、時代は家康を求め徳川家は外国との交易を狭めて行く。それもまた博多人の思いとは逆だった。

 

島井宗室は、「武士とキリシタンには絶対になるな」という言葉を含めた遺訓一七ヵ条を残したことでも有名です。商売(交易)の邪魔をする分からず屋の武士、そして武士を唆した嘘吐きのイエズス会を嫌っていたと考えられる。

遺訓十七カ条は、聖徳太子の十七条憲法に倣ったものとされるが、内容は十七条憲法以上に濃いし庶民的でもある。それを怪説したいけど1回では書き切れません。なので次以降にその怪説は回しますが、博多がどうして秀吉に協力したのか、そして宗室が武士を嫌った理由にも繋がりますが、全ては博多の復興の為だった。逆に考えれば、博多復興の為に九州を売った、挙句の果てに支那や朝鮮との戦争も引き寄せてしまった。という事でもあるので、博多の商人たちが偉かったとは言い切れない。が、武士の力が弱かった博多は、大内家に脅され、やがて豊後の大友宗麟に支配され、大友と肥前・龍造寺の争いが激化すると博多は戦場と化し荒廃する。荒廃した博多に目をつけたのが秀吉で、秀吉は博多復興を餌に商人たちの協力を要請した。秀吉の狙いが九州征伐にあったことを見抜けなかったとも云われるが、博多復興と引き換えに三傑は秀吉お抱えの武器商人ともなった。

その結果が大陸遠征へ繋がったことを悔いた博多は、政治と密着しない経済文化構築を目指し、周辺諸藩とは性格を異にした。それは、黒田家に支配されて以降も、武士の町「福岡」と商人の町「博多」という二つの文化が並立した独特な町づくりに繋がる。

政治(時の政権)と密着した事業はいつかは必ず廃る。宗室もそれを口酸っぱく言い残したに違いない。そして、今、福岡市は結構な賑わいを見せている。が、政治に蝕まれつつもある。

第二次元寇の怪説

朝鮮族は日本人と見るや下等扱いし辺り構わず侮蔑し愚弄する。日本人の劣る部分を殊更喧伝するのは得意とするものの、日本人が勝る部分を見ようとはしない。高麗当時の朝鮮族も正にそうであったようだ。文永の役(第一次元寇)で大敗北した要因をしっかり解明したとも思えない。ただ、相手(日本)に運があり、自分たちは不運で人も足りなかったとしか考えなかったようだ。

文永の役から7年後、全く工夫の無いルートで、再び韓漢合同の大船団が日本を攻撃して来る。工夫がないどころか、またもや何の学習もしていない。台風を理解していなかったのか、それは愚かにも台風シーズン真っ盛りの夏に敢行された(第二次次元寇弘安の役:1281年6~7月)。

高麗軍と漢民族の寄せ集めが主力に変わりは有りませんが、流石にこの時は、大モンゴル帝国も本気だった。戦艦総計約4,500艘とも、軍兵総計約15万人とも、水夫や運搬人約5万人とも云われる、正に大モンゴル帝国の威信を賭けた、歴史上類を見ないと云われた大軍勢です。(※この戦費負担は、高麗を更に追い詰め、元朝衰退の直因ともなった)。

 

その頃の九州各地は、二度目の元寇が行われるという前提で備えていた。最初の迎撃地点となる対馬は、1回目の元寇の際には、ほぼ無抵抗状態で破壊された。が、二回目の元寇では厳戒態勢で迎撃。高麗軍は大きな損害を被ったと云われます。それは壱岐でも同様。しかし流石に大軍勢の韓漢船団は我が国の防衛ラインを次々と突破して、その姿を九州北部沿岸へ現します。この時、仰天する程の巨大水軍を目の当たりにした者達には、流石に恐怖心が過ったと思われます。が、文永の役で得た教訓により、より高度な防衛戦の準備を整えていた我が国の側も、その恐怖を撥ね退けて大決戦へ挑みます。

前回の教訓により、我が国は博多湾沿岸に約20キロに及ぶ防塁を築いていた。防塁は一定の効果を見せ、上陸作戦に手間取った敵は上陸地点を変更。以降の攻防戦は志賀島が舞台となって激戦が繰り広げられます。

ところで文永の役の後の九州の非御家人達は、相応の"家臣団"を揃える豪族となっています。日々戦術を鍛え上げていた。そして弘安の役は、日本人の多くが知る大風(台風)が吹き荒れる時季。このような時に海からやって来る無謀な相手を逆に「恐るるに足らない愚か者ども」と見て取った。「必ず天罰が下される(大風が吹き荒れる)」「それまで頑張れば必ずや敵を降伏せしめる」と、今回も勝利に対するモチベーションは高かった。

台風を知る海洋民族の日本に対して、それを知らない蒙古族(大陸民族)。その情報を的確に渡すべき朝鮮族は、我が国を馬鹿にするだけで自然条件を軽んじた。台風のことなど少なからず知っていたであろう漢民族ですが、元朝に対して、時季が悪いと制せなかったのでしょうから、両者の関係は上手く行っていたとは思えない。

 

我が国は、遂に上陸軍を海へ追い返します。それで戦局は断然優位へ向かう。時間をかければかけるだけ、折角大量に用意した馬も海上に長くあって波のうねりに疲弊し使えなくなる。騎馬隊が使えない大軍は何も怖くない。烏合の衆に過ぎない。更に、兵糧尽き、食うに困っている軍隊など数十万人いても何も怖くない志賀島上陸戦に失敗した敵軍は、一時的に占領包囲していた壱岐へ退却。しかし・・・

我が国側も「敵国殲滅」に本気でした。肥前の豪族(海賊も含む)、御家人達を筆頭に数万の軍勢が逃亡する敵軍へ総攻撃をかけてそれに成功します。壱岐への上陸を阻止された敵軍は海上を彷徨う。そして大風を迎えた博多湾玄界灘は荒れ始める。波逆立つ海を漂うしかなくなった敵軍に対し、我が国は決戦の場を鷹島沖とする。この海戦も我が国側が圧倒的に勝利する。被害甚大な敵軍は必死に立て直しを図ろうとするが、その時すでに遅し。寄港地を失った敵軍を台風が直撃。これで一巻の終わりです。

我が国の捕虜となった者が2万とも3万とも云われ、10万人を超える命が海の藻屑と消え、命からがら逃げ帰った者はほんの1~2万と云われています。

 

史上空前の大艦隊で日本占領へ向かった大帝国モンゴルが、コテンパンにやられた。この噂に当時のヨーロッパや西南アジアの各国が驚愕します。これで大モンゴル帝国の威厳も地に落ちる。正しく、世界の歴史に大きな影響を与えた「大戦争」です。元朝大敗の報で欧州や小アジアの情勢が変わって行きますから、「ニッポン」という国が、その後のヨーロッパの宣教師達に強く興味を示されたことは言うまでもない。そして・・・

後々の日清戦争日露戦争で、「もしかしたら日本(大日本帝国)は、本気で勝つつもりでいるのではないか?」そして「勝つのではないか」と、イギリスやヨーロッパ諸国にそのように思わせる根拠となった。

第一次元寇の怪説

元朝(大モンゴル帝国)に服属した朝鮮国家(高麗)は、我が国などいとも簡単に攻略出来ると(元朝を)唆します。我が国を侵略しようと繰り返しては尽く跳ね返されたことを逆恨みする朝鮮は、遂に元朝を唆すことに成功する。

1274年。元朝の威を借りた朝鮮(高麗)軍は、支那人と共に大船団を組んで北部九州を襲撃する。朝鮮からの攻撃には慣れていたとはいうものの、支那人、そして相当数のモンゴル兵も加わった巨大水軍に対しては、九州西北部の領主達にもさすがに戦慄が走った。が、対馬壱岐、松浦、そして博多。何度も経験している朝鮮族の侵略行程そのままの進軍です。我が国にとっては、「数は多いが、いつもの通り」と、一時はパニックに陥ったものの、努めて冷静さを取り戻す。(第一次元寇文永の役:1274年11月)。

  

朝鮮族(高麗軍)のモチベーションは異常に高かった。何度も何度も侵略を試みては跳ね返された日本に対して、今度こそは滅ぼせるという思いに心は踊っていた。そして勝利の暁には、対馬壱岐のみならず、あわよくば九州をも我が物に出来ると考えていた事でしょう。しかし朝鮮人は、情報を捏造する事には長けていても、相手(日本)を蔑むばかりで真実を見ようとしなかった。そのような朝鮮人に日本との交渉役や情報収集を任せた時点で、既に元朝に勝ち目は無い戦だった。

朝鮮(高麗)は、何度侵略しても成功しなかった理由を「数の問題」として見えていない。自分たちの感情論ばかりが先走り、日本のことなど深く知ろうとはしない者達(朝鮮族)は、それは現在も変わり映えしないのだが、日本人を蔑むことしか能が無い、日本人を蔑視して口汚く罵ることでしか満足を得られない。そのような朝鮮族に対して、軍勢を何万預けようと何十万預けようと無駄。

戦争に勝つには、地理(地形)や自然環境を含めて徹底的に相手を知ることが鍵になる。朝鮮族は、日本を卑下するあまりに、その内実を真に知ろうとする基本姿勢が成っていない。それじゃあ戦いにならない。日本をあまりにも軽視した情報しかモンゴル軍司令部に対して渡していない(「日本の守りなど大した事は無い。体格も小さく動きも鈍い。指導者も愚か者で一捻りに倒せる」且つ「奴らは臆病な卑怯者ですぐに降参する」等々)。情報にもならないような情報で動いたのだから、当時のモンゴル人も、相当日本をコケにしていたのでしょう。但し、少なくとも漢民族は日本を知っていた。我が国は、大モンゴル帝国に滅ぼされる以前の宋とは深い交易関係にあった。日本の水軍情報も漢民族は得ていた。が、彼らは、蒙古族征服王朝である「元」を快く思っていない。当時の日本を攻撃する事に対して、漢民族には、然したるメリットは無い。日本攻撃に駆り出された漢軍の戦争モチベーションは低かった。故に、漢人たちはモンゴル人に対して、日本の情報(武士とか海・地形とか)を正確には与えなかったのだと考えられる。

 

九州北部は、中央アジアのような大草原が広がるような地帯では無い。柔らかい砂浜、狭い道、ゴツゴツした岩肌、すぐ山、そして川の連続。欧州を恐怖に陥れた、大騎馬隊が縦横無尽に駆け回れる地形とは似ても似つかない。ですので、もしもモンゴル軍が大量の騎馬隊を送り込んでいたにせよ、活躍の場は無かったと考えます。

尤も、当時の大モンゴル帝国の主力部隊は、小アジアやヨーロッパ方面へ向いていて、騎馬軍団の数は恐るるに足らない程度。あくまでも日本攻略の主力は、高麗軍と寄せ集めの漢人たち。

 

歴史教科書では我が国は散々恐怖してやられまくったように描かれていますが、そりゃね、相手は見た事も無いような大艦隊で大軍勢で押し寄せて来ていますからね。相当びびったでしょうし、ダメージも受けたでしょう(博多が焼き討ちに遭った史実はその通りでしょう)。それでもやっぱり我が国は勝つべくして勝った。

朝鮮族との戦い方には手慣れていた。そして、噂に聞いた大騎馬隊ではない蒙古軍(蒙古軍もいるにはいたでしょうけど、大半は寄せ集めの漢軍)は、見慣れれば、思ったほど怖くは無かった(と感じた)。初めてみる「てつほう」や戦法に戸惑ったにせよ、この地形で馬を走らせる技術は、九州の侍達や鎌倉御家人衆が遥かに上手。しかも、日本馬は、嘗て高句麗から取り寄せたモンゴル馬を原産としている。馬の質は一緒です。日本の風土に合うように品種改良された日本馬の方が寧ろ上。騎馬戦では逆に日本が圧倒的に上回る。戦において、地の利は馬鹿に出来ません。地の利を生かし、補給の容易さとスピード(馬)、風を読んでの弓矢射的、等々、我が国が勝ったのは何も不思議では無い。戦の道理です。

 

教科書歴史では、「我が国は有史以来、初めて外国の大軍(軍艦約800艘、軍兵約2万5千、水夫約5千・・・但し諸説有)の攻撃を受けた」ように書いているでしょうけど、国内の源平合戦だって物凄い数同士の戦いです。血で血を洗った国内の大戦争の経験を持っている事を過小評価してもらっては困ります

鏑矢を放ち戦開始の合図とし、見るからに分相応な相手に向かい「やぁやぁ我こそは」と名乗って一騎打ちに応じる。そういう人もいたでしょうけど(いやいや、有り得ません)、そういう暇など無い戦を高麗軍や朝鮮の海賊たち相手に度々経験している。その事を我が国の教科書編集者は(わざと?)見落としている。

 

日本側に多くの騎馬武者が揃い、地の利を知った仕掛けも容易い、という学習能力が朝鮮族にはあまりにも無さ過ぎた。だから、圧倒的な数を揃えながらも結局は海上への退陣を余儀なくされた。一度上陸したのに、大掛かりな拠点設営も叶わなかった事を思えば、高麗・漢の上陸戦は惨敗に近かったのではないかと考えます。我が国がさんざんやられたという言い伝え通りなら、博多の何処へでも居座れる。わざわざ海へは戻らない。

そして焦った敵艦隊は、初冬の波荒く操船厳しい博多湾の闇夜の中にあっては、そりゃあ操船ミスを多発して、一夜にして(は大袈裟でしょうけど)多くの船が海に沈んだと云われます。(一説では、人的被害は1万3千人以上に及ぶとされる)。博多の民は、息絶え絶えに流れ着いた者達や多くの屍を見て驚いた。噂に聞いていた恐ろしい蒙古人の死骸かと思ったら、その大半が、いつも見掛けていた漢人朝鮮人だった。

この戦で、我が国の北部九州一帯が甚大な被害を蒙った話は事実でしょうけど、船舶や兵士や武具の多くを失った朝鮮(高麗)も、この第一次元寇によって大いに経済疲弊したと云われています。尤も、現代の韓国はそれを認めようともしないでしょうけど。

 

しかし、大日本帝国歴史教育ではそのようなことは教えていない。けっして朝鮮人を悪く言わない。朝鮮人は併合し朝鮮系日本人となるのだから、同じ国民同士が敵視し合うことは避けたかった。だから何故か上陸軍は船へ戻り、そして神風が吹いた(低気圧による荒天=神風説)。そして戦後日本の教科書も、外国への配慮最優先で他国をけっして悪く書くことはしない。だから、此方の書くことは歴史解説ではなく怪説となる。